今日という日のその続きは長短にかかわらず余生なのだ| 仕事と住まい

人生が有限であるといつも考えるのはつらい?~東村山の不動産会社

「今日という日は残りの人生の最初の日だ」という格言があります。また、「明日死ぬと思って生き、永遠に生きると思って学べ」というのは、ガンジーの有名な言葉です。いずれも人生は有限であって、今日という日の延長がいつまでも続いていくわけではないことを感じる名言です。

日々の雑事に追われて、また当たり前すぎて、つい私たちは人生が有限であることに思いを寄せることを後回しにしてしまいがちなところがあります。その一方で、後回しにしてしまう習性や忘れてしまう力というのは、はかない人生をうまくやり過ごすために与えられた能力なのかもしれません。

ただ、屁理屈と思われるかもしれませんが、私(阿部)は「今日という日は残りの人生の最初の日だ」と言われると、そこからめちゃくちゃがんばらなければいけないような気がして、少し引いてしまいます。そんなわけで私は残りの人生は余生だと考えるようにしてるのです。

長いかもしれない「余生」を送るために~東村山の不動産会社

余生というと、平均寿命に達しそうな、または達した人が残り少ない時間をのんびり過ごすというイメージです。しかしながら私が考えるそれは、47歳の私が明日死んでも、100歳を超えて生きるとしても、これからの時間はすべて余生と位置付けることで、心身を病んだり他人を傷つけたりしてまでがんばる必要はないということを、明確に担保するという意味を込めています。

これは5年前に一度、うつ病とパニック障害で入院。一度は“社会復帰”をあきらめそうになった私なりの処世術、世渡り術でもあります。余生だからがんばってはいけないということはないわけで、そのあたりのゆるさが命綱となっています。

そんな「余生」を送るために大事なのが仕事と住まいです。そこにかかわって、喜ばれる仕事をつくっていきたい、日々そう考えています。

 

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