海部俊樹元首相の存在から人間の運命を考える | 不動産屋のひとりごと

人間の運命というものは、その人の日頃の行いや積み重ねによって導かれるものだと思う反面、運命のいたずらという言い方があるように、そう言い切ってしまうにはあまりに残酷な側面もあるものです。

「願えば叶う」も正しくて誤っているし、「願っても叶わない」だって、正しくて間違っています。

海部俊樹元首相が91歳で亡くなったというニュースに、時の流れを感じました。なぜなら、海部さんは、ちょうど私が多感な中学生だった頃の総理大臣(首相)であり、政治や社会問題に関心を持ち始めた高校生の頃にも、政界再編や政局の中心にいた政治家の一人だったからです。

私には子どもはいませんが、その海部さんが亡くなるなんて、そりゃ中学の頃の友達に孫が生まれるという話も聞くようになるよな、といった気がしています。

海部さんは、29歳という若さで衆議院議員に当選し、後に首相を務める三木武夫さんの秘蔵っ子と呼ばれ、自民党内では三木派に属します。三木派は小派閥ゆえに、あまり重要なポストはまわってきませんが、それでも海部さんは三木さんの下で官房副長官、国会対策委員長を歴任。その後、文部大臣(現在の文部科学大臣)に2回就任します。

まだ1980年代といえば、自民党も派閥の結束が強い時代。派閥のボスとして所属議員を率い、党三役(幹事長・総務会長・政調会長)などの経験を積んだ人が党の代表である総裁に選ばれるのが常識でした。国会で自民党が多数を占めることを前提として、総裁選び=次期首相選びということになります。

ところが、88年に贈収賄事件の「リクルート事件」が明るみに。現職の首相や首相候補と目されていた政治家たちの関与が明らかになり、政界は大きく揺れ動きます。そこで事件への関与が認められない実力者として、中曽根派の幹部で外務大臣だった宇野宗佑さんが首相に就任しますが、参議院選挙で大敗北を喫し、2ヶ月で首相の座を降りざるをえなくなりました。

その後任として白羽の矢が立ったのが海部さんでした。当時、外務大臣や大蔵大臣(現在の財務大臣)、党三役の経験のない総理総裁は異例でした。

自民党は演説がうまく、穏やかで明るい性格という評判があり、クリーンでさわやかな雰囲気を持つ海部さんに復活を託します。当時は昭和生まれ初の首相ということも話題になりましたが、三木派(当時は代替わりして河本派)でありながら、最大派閥である竹下派の竹下登元首相と関係が近いことも決め手となったという話もありました。

また、リクルート事件で名前の挙がった首相候補たちが、ほとぼりが冷めたら再び首相をめざすためには、あまり世代交代を印象付ける人を首相にすることはできなかったといわれます。その点、20代から衆議院議員に当選を重ねてきた海部さんは、年齢は若いけれど議員歴は長いということで、うってつけの存在だったという声もありました。

まさに、冒頭に述べた「運命」の話です。

若くして与党の政治家になった海部さんに、たぶん首相をめざす気持ちはあったと推察します。ですが、小派閥の1議員に過ぎなかった海部さんが、派閥全盛の時代に天下を取るのは、現実問題として難しいと考えるのが普通でしょう。また、失礼ながら、大派閥に所属しながらライバルをおさえてご自身がリーダーになれるようなタイプにも思えません。

やはり、これが運命というものなのでしょう。ちなみに、当時、首相候補と言われながら、待つことを余儀なくされた安倍晋太郎氏と渡辺美智雄氏は、病の発症やその後の政局によって、首相の座を目前にしながら、この世を去っています。事件がなければ、たとえ短命内閣に終わったとしても、共にそれまでの自民党型のリーダーといえた二人は首相になっていたかもしれません。

海部さんは正直、歴代首相の中では、あまり高く評価されていない気がします。また、90年代の政界再編の中で、自身が総裁を務めた自民党を離党し、後に復党するといった行動も、どちらかといえば良く言われません。

読んできた本の知識や、メディアの報道などから勝手なことを言うようですが、海部さんは自分がリーダーシップを発揮するよりも、そういう人を支えるにはすこぶる優れた方だったのではないかと思います。わかりませんが、権謀術数がうずまく政界の中にあって、珍しいタイプの政治家だったのではないでしょうか。

時の流れにしみじみしつつ。ご冥福をお祈りいたします。

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